ネットで見つけたファミコンニュース、ファミコン関連アイテムの紹介
オロチのファミコン思い出話、ネタ話など・・・


オロチのファミコン収集記 16

 今日も見た。正直2ヶ月ぶりくらいだったけど。どこか知らない街で発見するのだ。おお、あんなところに玩具屋がある。胸おどらせ店内に入ってみると、でたー!

 見たことも聞いたこともない幻のファミコンソフトたちが、棚にズラーっと置いてあるわけ。頭のデータがぐるぐる回り始める。これは正規品か。パチ物か・・・信じられん。見たことない。大発見だ。僕は何度もそのパッケージを見ては大量の汗を流す。
 こんなの持ってない。欲しい欲しい欲しい。しかしなぜかいつも所持金0円なのだ。いや、正確に言うと、明確な理由はわからない。とにかくいつも買えないのだ。
 このチャンスを逃すともう2度とこいつとは巡りあえないだろう。なんとかしなければ。どうしよう。あせる。でも手に入れることができない。あせる。そうやって迷ってるうちに目が覚めるのだ。あれ?

 こんな夢を僕はここ10年ぐらい、ものすごいペースで見てる。ファミコンを集め始めて以来ずっとだ。僕の夢はたいてい僕の生まれ育った地元が舞台なんだけど、ファミコンの夢に限ってはどこか知らない街で、シチュエーションもだいたい同じ。知らないお店に入ると見たことないファミコンソフトがあって、やったーと思ってると、なんか知らんけど買えなくて、ガッカリするという内容だ。で、目が覚めると本気で悔しかったりするのよ。ああバカみたい。

 まあ最近はさすがに「いつものか」って感じなんだけど、自分でもバカみたいだと思う。そんなにファミコンが好きなのか俺は。夢に出てきちゃうほどって。
 そりゃあ僕だってコレクターのはしくれだし、夢と同じような思いはさんざんしたさ。それこそ数え切れないくらいね。それなりのファミコンサイトだって持ってるし、雑誌の取材を受けたことだって何回かある。
 でも恥ずかしいから夢にまで出てくるなっての。しかもなんで、いつも同じシチュエーションで、同じオチなんだよ・・・

 神様。せめて夢の中だけでもお宝をゲットさせてください!


 ということで「オロチのファミコン収集記」シリーズは今回でおしまいです。皆様、長い間ご愛読ありがとうございました。次回からは「オロチのファミコン新生活」シリーズがはじまります。楽しみに待っててね。(ほんとかよ)

オロチのファミコン収集記 15

 巨大な壁を前にして、僕は基本的な疑問に立返っていた。そもそもファミコンソフトの総数っていくつなんだ。思えば僕がファミコンを集めだした理由がそれだった。その疑問を解決しようと誓ったあの日以来、ファミコンをもらいまくり、買いまくり、資料をかき集め、ここまできた。そして今では、わかったような顔をしている僕だが、実はハッキリ答えることができない。
 こうなったらぶっちゃけて言おう。知らないのだ。

 もっとも一般的に言われてる(非売品やウラ物を除く)総数は1252本なのだが、書籍やサイトによってその数は様々。パッケージ違いやバージョン違い、付属品違いのものや、NHK学園などいちおう市販はされてはいたけど微妙なもの(いちおう特殊ROM?)は含まれてなかったりするのである。

 僕が初めて手に入れたファミコン総覧本「大技林」では総数が全1240本となっていたし(その後、全1246本に修正されたらしい)ファミコンソフトを全部網羅したバイブル的資料である「ファミコンプリート」では全1249本、似たような資料本「ファミリーコンピュータ 1983-1994」では全1252本となっている。
 一方、ネット大百科「wikipedia」では総数が全1251本となっており、パッケージ違いやサウンドウェアシリーズを含めたデータベースサイト(こちら)では全1260本とある。
 公式発表がないから、みんな自己判断で総数をはじき出しているのが現状だ。

 さて2008年を迎えようとしている現在、僕は特殊ROMの壁をあと一歩で乗り越えられるところまで来た。記念すべきメモリアルイヤーである2003年から早5年。ナメクジにさえ追い抜かれそうな勢いでゆっくりと、それでいて確実に登ってきた。しかしその壁を越えても、その先にはディスクの壁という、さらに巨大な壁がそびえたっているし、またさらにその先には裏物の壁、非売品の壁が蜃気楼のようにゆらめているのが見える。え、登るの。俺が?

 未だに半信半疑。だって頑張りたくないじゃない。気楽に行きたいのだ。前を向いてね。でも、見てしまうんだな・・・

オロチのファミコン収集記 14

 2003年、僕の前に立ちはだかっていた3つの砦はこいつらだ!

「サマーカーニバル’91烈火」
プレミアソフトの中でも1位2位を争う人気ソフト。僕との因縁話はファミコン収集記12で紹介したとおりだ。これは名古屋大須のとある小さな店(今はもうつぶれてしまった)で見つけ、死ぬほど迷った挙句(貧乏だったので)、1ヶ月後に2万円くらいで購入した。

 「囲碁指南94」
いわゆるコレクターズアイテム。こいつは意外な方法で僕の元へとやってきた。なんと我がホームページの古参である、とある方が気前よくプレゼントしてくれたのだ。勝手に名前を出すわけにはいかないので伏せさせてもらったが、今でも本当に感謝しています。ありがとうございました。

 「囲碁名鑑」
これこそ完全なるコレクターズアイテム。また囲碁かよと思ったかもしれないが、ファミコンコレクターを目指す者の前に、最初に現れる壁は「囲碁の壁」だという話は有名である。
 これは東京へライヴしにいった帰りに、秋葉原のとある名物店で購入した。そのときの報告が我がスレッド式ファミコン掲示板の雑談スレッドに残ってるので見てみてね。
 
 こうして僕は2003年6月、ファミコン生誕20周年の記念すべきメモリアルイヤーに通常ROMコンプという1つの目的を達成したわけだが、それがどうしたというのだ。僕は最初の壁を乗り越えたにすぎなかったのである。

 どういうことかというと、こういうことだ。僕はあえて「通常ROMコンプ」というのを1つの目標とした。ファミコン本体に何も経由せず普通に差し込むことのできるROMのことを通常ROMとしたのだ。だったら何か経由しなければいけないもの(カラオケスタジオシリーズ、なんてったってベースボール子ガメROM、データック専用ROMなど)は特殊ROMだ。つまり囲碁の壁の向こうには、さらに巨大な特殊ROMの壁があったのだ!

オロチのファミコン収集記 13

 21世紀はじめ僕が見つけたパラダイス。それはまだ参加無料だったyahoo!オークションである。僕はそこで重複してるものをまとめ売りなどし、そのお金で自分が持ってないものを買い求めたのだ。それは魔法のリサイクルだった。みるみるうちに僕のファミコンの贅肉が新たな細胞へと生まれて変わって行くのだから最高である。便利、カンタン、気持ちいい!

 しかし毎日バカみたいに東海エリアの玩具屋をまわった日々、未知なるファミコンを発見したときの喜びを思い出すと、なんだか味気ない気持ちにもなった。それはあまりにヒマだった僕だけの特権だったはず。しかしオークションの前では皆、平等。むしろお金持ちが、さらにファミコンを集めやすくなっただけの話だ。

 一方、貧乏な僕は有料化とともにyahoo!オークションをやめてしまった。月々300円が払えなかったわけじゃなく、引越しによるネット環境の変化が原因だった。それからファミコンが20周年を迎えるまで、一体僕は何をやっていたのか、今となってはあまり憶えていない。そして某ゲームメーカーに営業として就職するのだった。

 気がつけばファミコンメモリアルイヤーである2003年。僕のファミコンコレクションは通常ROMコンプまで残り3本になっていたのだった。

オロチのファミコン収集記 12

 そもそも僕が秋葉原へ初めて行ったのは大学生のときで、1997,8年くらいだろうか。そのころ僕はJAZZ研究会なんていうお洒落なサークルに所属していた。なぜか部長が極度のキーボードマニアで「ヴィンテージ物は東京でしか修理できない」なんていう訳のわからない理由から、サークルの皆と東京に繰り出したとき、秋葉原に寄ったのが初だったと記憶している。

 そのときの忘れもしない出来事といえば、あのプレミアソフトの代表格であるサマーカーニバル’92 烈火がなんと箱説1200円で売られていたことだ。まだプレ再評価時代みたいな時期だったので、どこの店も、何にどんだけの値をつけていいのか、よくわかってなかったのかもしれない。僕は小躍りしながら買って帰ったと言いたいところだけど、なんとほぼノーリアクション・・・
 むしろ「これ持ってないけど、ちょっと高いな・・・」みたいな反応だった。アホか。買えっ!ああ、あのときに戻りたい。本当に僕は何も知らなかったのだ。(店もね)

 そんな話ならいくらでもあるんだけど、もう1つ忘れられないのは百の世界の物語。これもまたプレミアソフトの代表格で、僕が10代の大学生だったときの話。ファミコン集めを意識し始めたころだったかな。
 すごいマイナーな地元のゲーム屋に箱説300円くらいで置かれていたこいつをみつけたのだが、他にも同じようなファミコン後期の作品が30本くらい売られていて、あくまでもその1つに過ぎなかったって感じだった。で、とにかく持ってないソフトを買おうってなったのだ。しかしそこは貧乏学生。全部買って帰るという荒業はできないので、5本くらいをピックアップした。残念ながらその中には、百の世界の物語は含まれなかったが、まあ最初だから大目に見てやって下さい。
 数日後、僕はまたその店に足を運び、5本くらい選んだ。そのとき、百の世界の物語をその5本に入れようか一瞬迷ったのだ。時間にしておよそ0.5秒。
 「これ、持ってないけど、よく見かける気がするし、今回はやめとうこう・・・」って、アホか!そのあとお前は、こいつをショーケースの中でよく見かけることになるんだってば!頼む。買ってくれ!

 そして数週間後、その価値を知った僕が慌てて店に戻ったときには既に遅し。百の世界・・・だけが見事に姿を消していたのだ。おそらくその価値を知る第三者が、鼻の穴を広げながら買い去っていったに違いない。うーん、くやしい!

 結局それぞれ僕は数万円をはたいて、数年後に購入することになるのだが、その悔しさたるや筆舌に尽くしがたい。いずれにしてもこの2本は僕にとって、もっとも因縁深いソフトであることは間違いない・・・

 そんなこんなで僕は21世紀を向かえ、とあるパラダイスを発見するのだった。

オロチのファミコン収集記 11

 僕が秋葉原に行ったのは大学生のとき以来、2度目か3度目くらいじゃなかっただろうか。ファミコンが売ってそうな店をまわった。そして愕然としたのだ。
 ガラスケースに祀られているプレミアソフトたちに愕然としたのだ。その絢爛たる光景に目をくらませて愕然としたのではない。その値段の、丸の多さに驚愕したのでもない。僕がそれらのソフトをほとんど持ってなかったことに愕然としたのだ!

 もはや見事としか言いようがない。僕が大技林を用いて作成した「持ってないソフトリスト」に残っているタイトルの大半がプレミア物だった。なんだこの説得力は。リストに残ってるからには、それなりの理由があるとは思っていたが・・・
 まさかこれほどまで現状と一致した結果になるとは夢にも思わなかった。手に入らないから高いんだ。そんな当たり前のことすら、僕は忘れてヘラヘラとバンド活動なんかしてたのか。ちくしょう。あれだけ東海三県を東奔西走し、努力して苦労してかき集めてきたファミコンソフトたちには、このガラスケースの中に入る資格がないのかー!(なんだこのノリ・・・)

 でも逆に言うと金さえあれば、秋葉原に行けばいいわけで。探す手間が省けるってもんだ。なんせ数が違う。裏ソフトだって平然と道端で売られていた。(まだそういうところは、ゆるい時代だった)そこは割り切って行こうぜ。ということで僕は、それからというもの、東京にライヴをしにいく度に秋葉原でプレミアソフトを1本買って帰えることにしたのだった。

 「えー、それが1万5千もするの!?」
 「価値観が圧倒的に違うんだよ・・・」

メンバーたちとのこんな会話も定番になった。どれだけ白い目で見られてもお構いなしだ。しかし特別なんだよね。秋葉原は。自分への褒美感覚というか。東京ライヴは半年に1,2回くらいだったから、観光気分で奮発もするさ。でも面白くないのだ。高い金だしてプレミア物を買うのは・・・

オロチのファミコン収集記 10

 世界がミレニアムを迎えるころ、僕はとある店で「超絶大技林」という古本を手に入れた。それはファミマガを出版してた徳間書店の裏技本の金字塔であり、ファミコン、スーファミは当たり前、ゲームボーイやPCエンジン、ネオジオ、プレステ、サターンまで載っている厚さが聖書ぐらいある巨大な冊子だった。しかも都合がいいことに、特に裏技がないソフトも(普通に発売されたものなら)載っていたのでカタログとしても活用できたのである。
 さらに言えば、あいうえお順の目次に加え、メーカー別や年代別の目次もあったりして、とんでもなく便利だった。僕はそのファミコンカテゴリーだけを切り取り、手作りでカバーをつけ、表紙に「見るな!ぬすんだらころす!」とマジックで書きなぐり(小学生か)、今でも大切に保管している。右写真が実物だが、よくみると「見」っていう字の中の線が1本多いな・・・(恥ずかしっ)

 そんなわけで僕はやっとこさ発売されたファミコンの総数を知ったのである。(ちなみに大技林には光栄のサウンドウェアシリーズなど、掲載されてないソフトが12本ほどあることが確認されている)そのころになると総数は1300を越え、所有タイトル数もディスクを含めて1000を越えていた。
 ネットで「たった一人のファミコン少年」を立ち上げたのもこの時期だ。世はファミコン再評価時代の真っ只中。ファミコンブームの再来とも呼ばれ、のちに64版どうぶつの森でファミコンが登場するなどしたが、まだ任天堂がディスクの書き換えを受け付けていたことは、意外にもあまり知られていなかったような気がする。

 そのちょっと前くらいに僕はレモンフーリガンというアングラ系ロックバンドを結成していた。といってもメンバーは僕(ドラム)とメーテル(ヴォーカル)の2人。このバンドのデビューは変わっていた。いつものようにせーので即興レコーディングした曲を、メーテルが元筋肉少女帯の大槻ケンヂ氏に送ったところ、なぜか気に入ってもらって、東京でライヴをさせてもらえることになったのだ。(大槻氏のイベントの前座だった)ライヴデビューが名古屋をすっ飛ばしていきなり東京である。しかも場所はアングライベントの聖地「ロフトプラス1」。(今でもファミコンイベントをたくさん開催してるよね)
 さあ困ったぞ。2人じゃライヴできないし。ということで僕は急遽、ベースとギターを加入させ、東京に乗り込んだのだ。まあここはファミコンのブログなのでライヴの内容とかは省略するけど、ハッキリ言って大成功だったかな。(本当は、暴れ過ぎてスタッフやロフトの店長に怒られたました。すみませんでした!)
 
 ライヴ翌日。僕は本来の目的である秋葉原へ足を運んだのである。(そっちかよ)

オロチのファミコン収集記 9

 とある古本屋に寄ったときの話。時間は20時過ぎだった。まだやってるかなと思いつつ僕は店の駐車場に車をとめた。するとシャッターの前で店のおばちゃんが酔っ払った男に殴られてるじゃないか。
 最初は夫婦喧嘩か何かだと思ったけど様子がヘンだ。おばちゃんが頭を蹴られた勢いで、店のガラスがバリーンって割れたとき流石に車から飛び出した。男はすでに自分の車に乗り込むところ。おばちゃんは頭から血を流して倒れている。僕は迷わずおばちゃんに駆け寄った。「大丈夫ですか」
 するとおばちゃん「車のナンバー・・・」と力なくつぶやく。僕はあわてて振り返り、去っていく車のナンバーを目に刻んだ。幸いなことにおばちゃんは軽症だったらしく、すぐに立ち上がりみずから警察へ連絡した。

 やがて警察が来て事情を説明するおばちゃん。なんでも店の駐車場に無断駐車して、近くの飲み屋で一杯やってきた男を注意したら殴られたという。後日、僕は目撃者として署に呼ばれた。すると早々にパトカーに乗るよう言われた。まさにその古本屋のすごい近所のアパートに到着。刑事の一人がそのアパートの前にとまっていた車のナンバーを指差した。僕がとっさに憶えた番号と一致している。色も同じだ。僕はこの車ですと言った。署に戻った僕は犯人らしき男の写真を何枚か見せられた。意外と憶えてないものだ。僕は2人にしぼるのが精一杯だった。
 さらに数日後、再び署に呼ばれた僕はある部屋の前で窓みたいなものを覗くように言われた。するとおっさんが取り調べを受けているではないか。正直言ってもうとっくに忘れてたけど、僕はあの人ですと言った(笑
 刑事ドラマみたいな体験だったな。僕の一言でこのおっさんは捕まっちゃうのかあと思うと、なんかすごいプレッシャーだった。ちなみに署に呼ばれると交通費が出るぞ。

 事件解決後、再びその店に行くと、おばちゃんはカウンターにいた。元気そうで良かった。おばちゃんも僕に気づいてくれたようで「お世話になったお礼に何冊でも好きな本を持って行って」と言ってくれた。僕はナンバーを憶えただけで、他に気の利いたことなんて何一つやってない。あのとき男を袈裟がためで取り押さえていたなら武勇伝だったけど現実はショボかった僕。だからお礼なんてとんでもないですと言って店を出た。
 
 というのは嘘で「じゃあ、これでもいいですか」と僕は厚かましく、かつ大胆にカウンターのショーケースを指差したのだ。並べられていたのはファミコンソフト。やったね!
 「あらこんなんでいいの」とおばちゃん。何本でもいいよって言ってくれたけど、結局はビビリなんだなあ。5本くらい包んでもらってそそくさと帰った。
 いま思えば30本くらいもらっても良かったんじゃないかと後悔している。

オロチのファミコン収集記 8

 なんと所持金が1000円くらいしかなかったのだ。いくら値切り王子と呼ばれていた僕でも、定価の合計が15000円を越える新品デットストックたちを1000円にするのは不可能だ。相棒G君の所持金は3000円程度、ガソリンを入れたら無くなってしまう。
 銀行だ。その頃ATMは銀行にしかなく、24時間でもなかったので、まず銀行を探しに行った。だが時すでに遅し。見知らぬ土地でやっと見つけた銀行のシャッターは重く閉まっていたのだ。僕は朝まで待つと主張したが、G君は帰ると譲らない。つかみ合い寸前のやりとりも、結局その日は断腸の思いで静岡を後にした。
 だがそこはヒマな大学生。一週間後ふたたび執念で往復600キロ。その店に舞い戻った僕だった。店のおばちゃんに定価に近い値段を提示されたが、もちろん値切って値切って拝み倒す。結局半額くらいにまけてくれて、念願の周辺機器たちをゲットした。おばちゃんありがとう。その後も何度かその店には足を運んだけど今でも健在だろうか。

 こんなこともあった。岐阜の温泉に行こうってことになり大学の連れを車に乗せドライブしてたら、中津川あたりだったか、どっかの商店街でおもちゃ屋を発見。3Dシステムを手に入れた。ハッキリ言って僕は当時、こいつの存在を知らなかったので見つけたときはかなり衝撃的だったな。そして見事にお金がなくなり温泉に行かずに帰ってきたよ。ほんとあのときはすまんかった。

 また、周辺機器コーナーでもエピソードを紹介している三重県松坂市の玩具屋では、新品のディスクシステムを手に入れた。そのときファミリートレーナーの専用カセットもいくつか買った。三重県には万陽書房っていう有名な地元チェーンの古本屋があって、もちろん全店まわったんだけど、一番品数が多かった店でレリクス暗黒要塞とか買った憶えがある。でもこの店、情報網がしっかりしているらしく、すでにプレミア物がガラス棚に飾られているところもあったよ。

 でも一番、忘れられない事件といえば・・・

オロチのファミコン収集記 7

 ときはファミコン再評価時代。プレステとサターンの全面戦争が勃発していた時期だった。僕は県内のお店を周り尽くしており、名古屋市内にはちらほらとレア物にプレミア価格をつける店が現れていた。メタルスレーダーグローリー5万円!衝撃的な光景だ。何も知らない僕はこれが最後の砦になるだろうと思っていた。
 そのころから僕は頻繁にファミコン遠征ツアーに出かけるようなった。行き当たりばったりの車旅である。とりあえず助手席に眠りかけた友達を乗せ、夜中ひたすら23号線を西に向かった。友達が朝起きると伊勢神宮だったりするわけだ。
 1号線をひたすら東に向かい、朝起きたら富士山のふもとだったこともあるし、左手に海を眺めながらどこまで行けるかってやつをやって、岡山まで行ったこともあった。とにかくバカみたいだけど楽しいツアーだった。もちろんお目当ては田舎の玩具屋に眠るファミコンなんだけど。

 厄介なのが「ファミコン」という看板だ。その頃ファミコンといえば家庭用ゲーム機の代名詞だったもんだから、スーファミならともかく、プレステだろうがサターンだろうが、全部ひっくるめてファミコンと呼ばれていたのだ。大迷惑な話である。
 たとえば大通りの反対側にファミコンの看板をかかげた店を見つけ、必死こいてUターンかまし、行ってみればスーファミしかなかったり、ひどい場合はスーファミすら扱ってなかったりした。JAROに電話したろかって話だ。 貧乏学生の車旅である。夜は車内で寝た。1日をフランスパン1本でやり過ごした。ガソリン代返せという話だ。

 そんななかでも静岡県磐田市の玩具屋は忘れられない。その日はG君という奴と往復600キロの遠征だった。その店は本当に古き良き昭和の玩具屋って感じで、床はむき出しのコンクリート、木の枠のショーケースが所せましと並んでおり、子供が数人、店内のちょっとした遊戯スペースで遊んでいる。本当に懐かしい場所だった。
 
 ふと見るとカウンターのうしろの棚上に、ホコリをかぶったハンドルコントローラ。そしてドレミッコ、さらに奥にハイパーショット(バンダイ)が隠れているではないか。感動した。ファミマガ等で存在は確認していたけど、実際に見たのは初めてだった。しかも3つ同時だ。新品デッドストックだ!

 しかし神様はとんでもない試練を僕に与えたのだった・・・

オロチのファミコン収集記 6

 僕は一人ぼっちになっていた。周りのみんながファミコン集めに飽きてしまったのだ。ここはひとつ冷静になって考えてみよう。たしかに1000本は越えたよ。でもよく見ろ。同じのがたくさんあるじゃないか。3割はかぶってるぞ。タイトル数でいえば700くらいか。そもそもファミコンって何本発売されたんだ。あとどれだけ集めればいいんだ。見当も付かない・・・

 ときは既にファミコン再評価時代黎明期。都会でレアだと判定されたソフトに、とんでもないプレミアがつけられ、田舎にも押し迫っていた。でも僕はいまだにファミコン大好き少年のまま。何がレアなのか、何にプレミアがついているのかわからないし、考えたこともなかった。周りに詳しい人間もいなかったし、インターネットもなかった。どうしたものかと考えた僕は、とりあえず集めたソフトを整理してみた

 これまで僕が集めたファミコンソフトをどうしてたかというと、箱入りのものやディスクは棚に、裸カセットは色別で適当にダンボールに入れていたのだ。グラデーションを作ったりして楽しんだ。うーん、まるで虹みたい(なにを言うとんじゃ)。でもこれだと何がどこにあるかわかりにくいぞ。じゃあ、あいうえお順にしてみようか。うーん、たしかにわかりやすいくなったが、漠然としすぎている。試行錯誤を繰り返すうちに僕はカセットの中に番号がついてるものがあることを発見した。これだ!
 うすうす気づいていたがファミコンソフトの中には番号がふってあるものが存在する。よーし、メーカー別にわけてみるか。するとどうだろう。不完全ながらもファミコンの全体像が見えてきたぞ。つまりメーカー別にわけて、番号に欠番があったならそのソフトは持ってないってことになる。それを逆算していけばソフトのだいたいの総数が推測できるってわけだ。

 一番最初に目に付いたのはナムコだった。1番ギャラクシアンから18番スカイキッドを並べてみる。続いてアイレム、ニチブツ、セタ、タイトーなどに取り掛かった。とくにタイトーの後期の物に欠番が多かった。続いて箱に番号がふってあるテクモ、さらには型番に通し番号がふってあるらしいアスキーやジャレコに取りかかった。なかには元々欠番になってる番号もあるみたいだった。(ゲームボーイもカウントされていたため?)しかしそんなことは知る由もない。僕はひたすらカセットを番号順に並べ続けた。

 今ふり返ってみると、コレクターだったら普通にそうしていたことだったかもしれないし、そんなことでファミコンの全体像が見えるわけもなかった。でも当時の僕にとっては、それが唯一の道しるべだったのだ。

オロチのファミコン収集記 5

 しかし僕が知っていたそれらの個人店のそのほんとが、21世紀を迎える前に、まるで申し合わせたかのように、いっせいに潰れてしまったのだ。ゲーム市場の変化にともないチェーン店が勢力を拡大したためだと思われるが、永久に降りてしまったシャッターを前にすると、何ともはがゆい気持ちにさせられた。

 僕はファミコンを買うとき必ずやることがある。値切りだ。個人経営の店でファミコンを買うと、よく店の人が昔話をしてくれた。全盛期は1日100本以上売れただの、今じゃあ売れば売るほど赤字だの、いわゆる武勇伝や愚痴である。値切りはそんな話のあいづちみたいなものだった。なかにはあまり友好的じゃない店もあって、僕がファミコン置いてありますかって聞くと「あるけど安くないよ」とか「最近そういう人多いのよね」とかブツブツ言われ、しまいには売ってくれないところもあった。でもたいていのお店は友好的で、値引きに応じてくれた。そんなやりとりが楽しかったのだ。

 しかし大手チェーン店ともなるとそうはいかない。まず相手がバイト君なのだ。その時点でハードルを1つ越えなければならない。必ずはぁ?って顔された。店長を呼びにどっか行ってしまう。たいていは不在か、奥から店長が出てきて丁寧に断られた。時代の流れってやつだね。

 まあ、そんなこんなで気付いてみたらなんとファミコンソフトの所有数が4桁を越えていたのだ。夢の1000本越え達成である。やったどー!

 でも現実はそんなに甘くなかった・・・

オロチのファミコン収集記 4

 時代はどこまでも僕たちの味方だった。いわゆるファミコン氷河期というやつだ。レンタルビデオ屋やディスカウントショップでファミコンが捨て値で売られていた時代である。ワゴンに山積みだ。箱説で100円200円は当たり前。中には80円や50円ってのもあったぞ。プレミアのプの字もなかったもんだから、選びたい放題の買いたい放題。店員さんに不審がられることなどお構いなし。両手で抱えきれないほどのファミカセをレジに持って行くと5000円でおつりが来た。

 3年生になった僕は大学へ車で行くようになっていたのだが、週2日しか通ってなかった。でも(ギリギリだったけど)ちゃんと卒業できたんだぞ。どういうことかと言うと、こういうことだ。

【月曜】 自宅 ─(2時間)→ 大学 ─(5分)→ 友人の下宿先
【火曜】 下宿先 ─(5分)→ 大学 ─(10時間)→ 自宅
【水曜】 <休>
【木曜】 自宅 ─(2時間)→ 大学 ─(5分)→ 友人の下宿先
【金曜】 下宿先 ─(5分)→ 大学 ─(10時間)→ 自宅
【土曜】 <休>
【日曜】 <休>

 まあこんな具合で、自宅から大学へいくのは週2日である。さてこの図でいくと自宅から大学までは2時間。そして帰りは10時間ってことになってるね。どうだ訳がわからんだろう。でも答えは簡単だ。恐ろしく時間をもてあましていた僕は県内中のあらゆる市町村をまわり、ファミコンが売ってそうなお店を探しながら帰っていたのである。おかげで大学から自宅までのルートを1000通りは知ってるぞ。ときには三河の山奥に迷い込み、半泣きになったこともあった。(アホだ・・・)

 僕は高校が名古屋で、元々市内の店をいくつか知っていたから、まずは名古屋市内をぐるぐるまわった。吹上のVISCO、本山のキンキーハウス、大須のドルフィン、今池のまんが道など。どの店も高校時代から何度か足を運んでいた思い出の店だ。
 そして名古屋市外も積極的にまわった。知多巽ヶ丘駅近くのプラモデル屋、碧南中央駅近くの中古ソフト屋。刈谷高校近くのゲーム屋、瀬戸商店街のゲーム屋、その他、安城、豊田、豊橋、大府、半田、常滑、長久手、小牧、春日井などににあった玩具屋さん。

 今でもすべてのお店を思い出すことができる。昨日のことのようにね・・・

オロチのファミコン収集記 3

 上々のロケットスタートを決めた僕たちだったが、そろそろ同級生や知り合いのつても頭打ちだ。だったらぜんぜん知らない人からもらおうってことになった。(あくまでタダでもらおうという発想かよ)そこで僕はあるものに目をつけた。「マンモスフリーマーケット」という雑誌である。それは「売ります/買います/ください」などの記事を誰でも無料で掲載できるという、現代でいうネット掲示板のような雑誌だった。僕はそこに「ファミコン求む」という記事を載せたのだ。
 
 するとけっこう反応があって、次々に連絡が舞い込んだ。印象に残ってるのは、200本くらいのカセットと150枚くらいのディスクを捨て値で譲ってくれた豊田のお兄さん。停学中だったにも関わらず、マニアックな周辺機器ばかり段ボールごとくれた犬山の高校生くん。金山駅で待ち合わせて30本くらいのカセットをくれたお姉さんとその彼。都会ではファミコンにプレミアがついてるってことを教えてくれた半田のお兄さん。ファミコン専用のスーツケース(右写真)にカセットを入れて持ってきてむしろそのケースを下さいとお願いしたら、快くケースごと譲ってくれた港区の学生さん、本当に感謝している。
 もちろんその他、数え切れない親切な人たちに会って、数え切れないほどのファミコンをいただき、交換し、譲ってもらった。都合がいいことに僕はちょうど自動車免許を取ったばかり。運転が楽しくて仕方ない時期だし、さらに体力も時間も腐るほどあったから県内ならどこでも回収しに行けたのだ。僕の愛車はさながらファミコンバキュームカーと言ったところか。そんな臭いドライブに付き合ってくれた友人たち。みんなに感謝だ。

 これで僕のファミコンソフト所有数は一気に2倍以上になった。計7、800本くらいだろうか。夢の1000本越えが見えてきたぞ!

オロチのファミコン収集記 2

 大学生になると僕の家は友達のたまり場になっていた。正確に言えば家じゃないんだけど。高校のときに親が別の場所に家を新築したので、今まで借家だったそこは、親の経営する会社の事務所になっていたのである。で、2Fがまるまる空いていたので、その部屋のひとつに僕が住み着いてしまったわけだ。隣の部屋にはときにはエジプト人が、ときには作家志望の女性が暮らしていた。で、1Fの奥がレコーディングスタジオだったりして(といっても防音設備も何も無い単なる楽器部屋だが)本当に訳がわからないんだけど、何万回思い出しても、全部事実なのだ。

 僕たちは毎日、麻雀をやったり、コンビニでプリンを全種類買ってきたり、一晩中フリスビーをやったり、即興アングラソングを録音したり、ミニ四駆のコースを作ってみたり、女の子を呼んで鍋パーティをやったり、スケボーをやったり、庭でアリの行列を見てたら、それが僕たちの部屋に続いてたりと、バカみたいな日々を過ごしていた。そんな中、みんながファミコンカセットを持ってきて、いつのまにかカセットが100本くらいになってたんだよね。よく憶えてないんだけど、とにかくキン消しとかビックリマンシールとか、みんな持ってくるから僕の部屋はいつしか、みんなが小学校のころ遊んだおもちゃの墓場みたいになっていた。

 その頃のゲーム市場といえば、次世代ゲーム機だ何だと騒がれ始めた時期で、実はいうと僕も発売されてすぐにプレステを買ったんだけど、3日で友達に売ってしまった。ポリゴンが気持ち悪かったのだ。やがて僕たちは毎日テクモワールドサッカーや、Drマリオや、いただきストリートをやるようになり、何気なく思った。ファミコンのカセットって何種類くらいあるのだろうって。それでなんとなく集めてみようってなったんだ。

 そしたら集まる集まる。そりゃそうだ。僕たちの世代はまさにファミコン世代。小学生のときにファミコン全盛期を過ごした世代だ。同級生にファミコンを持ってない奴なんていなかったし(あ、セガしか持ってないやつが一人いたか・・・)、しかも現役でファミコンをやってるやつもいない。押入れに眠っているファミコンのカセット持参で遊びに来いと言って、連絡が取れる奴を片っ端から呼べばいいだけの話だった。

 まさにファミコンが向こうから勝手にやってくる状態。僕たちは見事にロケットダッシュを決めたわけだ。カセットの数は瞬く間に300本を越えたのだった・・・

オロチのファミコン収集記 1

 ファミコンが発売されたころ、僕は小学2年生。運命は感じなかったけど、友達の家で初めてマリオブラザーズをやった瞬間は今でも憶えてる。もともと僕はスケート場とかデパートの屋上にドンキーコングなどのアーケードゲームの筐体があると、それをいつまでも眺めてられるような子供だったのだ。ゲームには興味があったらしい。

 そんな僕が親に、やっとファミコンを買ってもらったのは小学6年生のときで、カセットは高橋名人の冒険島だった。案の定やりすぎてすぐに取り上げられたけど、数日後、僕は母親の前で「あのころは楽しかったなあ」と、しみじみ涙を流し奪回に成功したというじゃないか。我ながら演技派だった思うよ。
 友達の中にはクリスマスにしかファミコンをやらせてもらえないって奴もいたけど、そいつはここぞとばかりに聖夜にドラクエをやってたなあ。去年やっとローラ姫を助けたって言ってたっけ。っていうか、いつまで禁止されとるんじゃ!まあウソだけどね。

 でもそんな僕も中学生になると勉強や部活や恋愛に追われるようになり、世間ではスーファミが出たって大騒ぎだったけど、田舎だったし、結局ディスクシステムも買ってもらえなかったし。僕の人生の中でもっともファミコンと疎遠だった時代かな。

 ところがどっこい高校生になったら毎日狂ったように任天堂のサッカーをやるようになったのだ。なんか壮絶な失恋でもしたんだろうか。(してねえよ!)それぞれのチームの選手に名前をつけて、毎日トーナメントを開き、結果をノートにまとめてたっけ。あのゲームは対戦チームが選べないから、目当てのチームが出るまで何度もリセットを押し・・・あー暗っ!でも待ってくれ。世は少年ジャンプ全盛期。何でもトーナメントで解決できた時代だったのだ。僕だけじゃないぞ!

 しかし男子校ってやつは男子が極端に2種類に別れるね。毎日コンパしまくってる遊び人グループと、毎日ゲーセンに通ってるオタクグループだ。僕はどっちのグループにも顔が効くような、悪く言えば中途半端な奴だった。コンパでいい思いしたことはほとんどなかったし、かといって当時ブームだった格ゲーで連勝することもほとんどなかった。テトリスだけは超人的に上手かったけどね。そして見事なまでにゆっくりと、そして確実に、後者のグループに落ち着いていったのである。ヴォーカルが絶叫するだけのアングラなバンドなんか結成したりして、ますますモテない方向へ・・・元気出して。

 それはさておき、任天堂のサッカーはどのチームを選ぼうがステータス的には何もかわらず、各選手の区別すらない。そんなゲームだって、手前の想像力と技術だけで、ゲーム性、グラフィック、やりこみ度を何倍にもできた。少なくとも僕にとってゲームとは、そういうものだったのだ。そういう時代だった。僕だけじゃないぞ!

 だけど夢にも思わなかったな。ファミコンを集めようだなんて・・・

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