ゲーマーの教養シリーズ 「日本人と遊び」の歴史


 ゲーマーだからって、べつに知らなくてもいいんだけど、知ってるとちょっとだけ役に立つかもしれない知識シリーズ。第1弾は「日本人と遊び」の歴史です。


<意外と複雑だった古代のゲーム>

 日本人の“遊び”についての記述で、もっとも古い文献のひとつである、7世紀ごろに編纂された「北史倭国伝」によると、当時の日本人はキハク、アクサク、チョボなどを嗜んでいたという。

 キハク(棊博)……囲碁
 アクサク(握槊)……双六(すごろく)
 チョボ(樗蒲)……盤ゲームの一種



 チョボは5人プレイの競争ゲームで、120マスの盤上に関所や落とし穴などがあり、コマは全部で20個(5色)、サイコロの目は10種類。蘆、白、雉、犢が出ると良い目で、開、塞、塔、禿、手+厥、梟が出ると低いんだとか。※1 なんだこの複雑なルールは(笑)

 そもそも「嗜む」は「たしなむ」と読む。

 この言葉は「芸事にうちこむ」というような意味で、つまりこのような遊びは、そもそも“貴族の芸事”だったわけだ。今でいえば茶道とか華道とかの類である。それは教養であり、コミュニケーションツールであり、暇つぶしでもあったのだろう。そんな膨大な時間の中で、ルールがどんどん複雑になったと思われる。

 物事の進化というのは一本道ではない。ある時代にピークを迎え、その後、すたれていった文化や技術は世の中に多く存在する。いわゆる「失われた技術」ってやつ。したがって、古代のゲームだからといって「単純だった」と思うのは間違いで、むしろそう思うほうが単純であると言える。

 ※1 中国文化史学者渡部武氏の説



<ゲームと賭博の切っても切れない関係>

 日本の正史書「日本書紀」によれば天武14年(685年)、天皇が大安殿にて「博戯せしむ」とある。博戯(はくぎ)とはいわゆるボードゲーム賭博であり、このことからもゲームには賭博がつきものだったことがうかがえる。

 平安時代中期に編纂された藤原明衝著「新猿楽記」には、サイコロの目を自由自在に操るなどチート級のゲーマーのことは「職人」と呼ばれリスペクトされており、芸能の一種として認められていたきらいがある。これも「貴族の嗜み」だった証であろう。

 もちろん賭け事は今ではれっきとした違法行為ではあるのだが、パチンコは事実上ギャンブルだし、雀士・桜井章一や、真剣士・小池重明の名を出すまでもなく麻雀や将棋には賭博のイメージがつきまとう。13世紀の皇族、後崇光院はその著書で「むしろゲームの醍醐味だ」と力説しているほどだ。
 それは即物的な利害のことを言っているのではなく「それなりのリスクを賭けたほうが楽しい」というゲーム性の話であることは言うまでもないが……

 一方で、双六は貴族だけでなく庶民にも広く普及していたとされる。碁をはじめとするあらゆる遊戯の中で群を抜いて人気があったようだ。むしろ、人気がありすぎて、お上から何度か禁止令が下されたくらいである。
 現在も、ゲームは行政やマスコミから目の敵にされてるけど、禁止されるほどじゃないよね。

 また、日本最古の医学書「医心方」には、加賀国に「双六別当(すごろくべっとう)」なる役職があったことが記されている。すなわち双六を管轄する国の機関があったということだ。現代で言えばゲーム大臣といったところか。こういうサブカルチャーの類に行政が介入したら、だいたいロクなことにならないのが相場だが、「双六別当」は、どっちかというと取り締まる機関だったようだ。




<ゲーム保存大国ニッポン>

 どっちを向いても国宝だらけ。奈良の正倉院には、現存する世界最古の双六盤(発掘品でない)が残されている。しかも1個や2個じゃない。パーティジョイだって何百種類とあったように、古来の双六も何百種類とあったということがうかがえる。そう考えると、語弊を畏れず言わせてもらえば、古代の天皇たちこそ、ゲームコレクターの元祖とも言えるだろう。※2
 また、ゲーム保存が叫ばれている昨今だが、実は世界に先駆けて実績を残しているのは、何を隠そう、日本だったのだ。

 ※2 積極的に集めていたかどうかはわからないが……

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 正倉院 (出典:ウィキメディア・コモンズ)

 それだけのことができたのは国家レベルのプロジェクトだったからである。ビデオゲームの保存に関しても将来的には行政が介入してくる可能性があるが、そうなるためには文化としての成熟が必要であろう。




<儀式化・茶番化するゲーム>

 ただし文化が成熟すると共に、様々な弊害も出てくる。そのひとつに挙げられるのが“儀式化”である。

 たとえば、古代の有力な娯楽のひとつだった射的は、最初は自由に遊ばれていたが、芸事のひとつとして認められ、天皇の前で披露されるようになると、とたんに儀式化していったという。8世紀半ばに編纂された儀礼書『西宮記』によると、射的が天皇の前で披露されるときは、服装から動作まですべてガチガチに決められていたという。そこに至るには以下のような流れがあったと思われる。
 

 プレイヤーが天皇の前で真剣勝負
 ↓
 緊張してミス連発
 ↓
 勝負にならない
 ↓
 動作から何から全部決めてしまおう
 ↓
 真剣勝負ではなく、ただの儀式に



 それが逆に競技に取り入れられるようになり、ゲーム自体が儀式化していった。

 時代は下るが江戸時代、将棋の世界にも将軍の前で対局を披露する御前試合というものがあった。これは徳川幕府が崩壊するまで続けられたが、実際は将軍が出席することは稀で、何ならプレイヤーが欠席で対局自体なかったこともあったり、17世紀末には、もはや事前に対局が行われ当日は盤に駒を並べるだけというような茶番となっていった。

 日本人はもともと物事を儀式化するのを好む民族らしく、たとえばアメリカの学校には入学式や卒業式がないことが多い。これは良い悪いの問題ではなく、国民性なのであろう。





<キャラゲーの元祖「浄土双六」>

 15世紀になるとただの盤、あるいは文字ばかりだった双六に絵が描かれるようになった。いわゆる“絵双六”の登場である。中でも「浄土双六(じょうどすごろく)」は大変人気を博したという。

 いろんな仏様がマスとなって、浄土の世界観を再現したものである。要するに仏様のキャラゲーだ。サイコロの目が123456ではなく「南、無、阿、弥、陀、仏」になっていたところや、地獄に落ちるとゲームオーバーになるなども見逃せない。それらは布教ツールというよりも、純粋なボードゲームとして流行したようだ。
 それから絵双六は独自の文化を築き上げ、名所、和歌、読物、役者などをモチーフにした様々なゲームが作られていった。これらの文化は近代まで続き、たとえば戦時中は「戦中双六」なりものが登場。ナショナリズムの高揚に利用された。

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※出典:東京国立博物館「新板浄土双六」

 日本人のキャラクター好きは何も仏教に始まったものではない。古くは八百万(やおよろず)の精神、つまり「あらゆる自然物には神が宿る」というアニミズムが源流であると考えられる。仏教が優れていたのはそれをビジュアル化し視覚に訴えたところだ。ゲーミフィケーション※3 でいうところの“情報の可視化”を有効的に取り入れていたのである。

 ※3 ゲーム制作のノウハウを利用し社会の様々な問題を解決しようとする学問




 参考文献:

日本遊戯史―古代から現代までの遊びと社会
増川 宏一
平凡社
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